東京高等裁判所 昭和32年(う)2421号 判決
被告人 中村益也
〔抄 録〕
所論は、原判決認定の未必の殺意を否定し、原判決に事実誤認の違法ありと主張するものであるが、原判決挙示の各証拠特に原審の公判準備における検証調書、司法警察員作成の実況見分調書の各記載及び被告人の検察官に対する供述調書(昭和三十二年一月十九日附)記載、本橋政夫の原審公廷における供述同人の検察官に対する供述調書記載等を総合考察すれば、被告人が判示日時場所において、本橋政夫と判示のような問答を繰返した後、同人、西村甲子三等の位置していた右本橋方玄関の方向に向け、約三米の間隔をおいて拳銃を発射したこと及び右発射に際し、被告人が右方向に拳銃を発射するにおいては或は命中して同人等のうちいずれかを殺害するやも知れないことを認識していたことを優に認めることができる。前記検証調書記載によれば、被害者西村甲子三に命中した弾丸は本橋方玄関の鴨居下部を貫通し、弾道を稍下方に変じたため、弾道の方向にあたる玄関上りかまちに佇立していた右西村の前頭部に命中したことが認められ、右命中自体には相当偶然的要素が介入していることは所論のとおりであるが、右命中弾は、その際被告人が連続発射した弾丸四発の内の一発であり、残り三発の内二発は、本橋、西村等の位置から至近距離の玄関正面壁玄関上りかまち床上六十糎及び七十糎の箇所に直接命中していることは前記実況見分調書の記載によつて明らかであり、この事実と夫々原判決援用の対応証拠及び当審公廷における被告人の供述によつて認められる発射当時の被告人の姿勢、銃口の方向、被告人と西村、本橋等との位置関係等を総合して考察すると、被告人に少くとも前記の如き未必の故意が存したものと認めることがむしろ経験法則及び採証法則に合致する所以であつて、所論のように、西村に命中した弾丸の弾道の偶然性を強調して未必の故意を否定することは、正鴻を失した独自の見解と断ずるの外はない。更に所論は、常識論としては、本件のような状況の下に拳銃四発も発射すれば、何人かを殺害する結果を招来すべきことは被告人において当然認識していた筈であるが、鑑定結果によつても明らかであり、原判決も認定したとおり、被告人は当時心神耗弱の状態にあり、興奮、恐怖、狼狽等の極端な精神状態の下に反射的に半無意識的に拳銃を発射したものであるから、未必の故意か認識ある過失か疑はしいと主張するのであるが、被告人が本橋方を訪れた経緯、被告人と本橋との問答のてん末から拳銃発射に至る一連の被告人の行動及びその間の被告人の心理の推移を原判決援用の対応証拠並びに当審における事実取調の結果を総合して仔細に審究するに、これら一連の行動はすべて被告人の意識によつて裏付けられ、拳銃発射の瞬間のみ突如として意識の裏付けを欠くに至つたものとは到底認め難く、犯行当時の被告人の精神状態が興奮、恐怖、狼狽等の結果、自己の行動について是非善悪の判断力著しく減退し、心神耗弱の状態にあつたことは鑑定の結果に徴し認められるとしても、自己の行動及びその認識並びにその結果に対する予見の能力までも著しく減退又は喪失したものとは認められない。心神耗弱の状態にあつたことを以つて叙上の認識を覆えすことはできない。所論指摘の検察官に対する被告人の供述調書記載も、この意味において、被告人の当時の心理状態を自然に採出したものというべく、本件未必の故意を認定する一資料として証拠価値を有するのである。その他記録を精査し、当審における事実取調の結果に徴するも、原判決に事実誤認の違法ありと疑うべき事由はいささかも存しない。論旨は理由がない。
(谷中 坂間 司波)
注 量刑不当により破棄自判